1880年岐阜県に生まれる。裕福ながら複雑な家庭に育ち、のち家の没落にあう。
東京美術学校西洋画科選科を首席で卒業。同級生に青木繁がいた。
実母の死を契機に30代の6年間を郷里で暮らし、うち最後の2冬は山奥で伐採した木を川流しで搬送する日傭(ヒヨウ)の仕事を体験する。
1938年頃より、輪郭線と平面による独特な表現に移行し、近代日本洋画に超然たる画風を築く。
欲の無い生き方とその風貌から「仙人」と呼ばれ、生き様、作品、書などが多くの文化人を魅了する。
87歳のとき文化勲章の内定を辞退。
俗世の価値観を超越した自由な精神で、ただ自由に自分の時間を楽しむことだけを願った生涯だった。1977年、97歳で亡くなる。
1985年5月、自宅跡地に熊谷守一美術館が開館。2015年9月、郷里の岐阜県中津川市付知町に熊谷守一つけち記念館が開館。
1880年 4月2日、岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)に生まれる。
1904年 東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科選科を首席で卒業。
1905年 農商務省樺太調査隊に記録係の画家として参加。
1909年 第3回文展に《蠟燭》を出品、褒状を受ける。
1910年 実母の死を契機に東京での生活を切り上げ、郷里で暮らす。
1913年 山奥で伐採した木を川流しで搬送する日傭(ヒョウ)の仕事を体験する。
1915年 再び上京する。第2回二科展に出品。以後1943年の第30回までほば毎年二科展に出品を続ける。
1922年 大江秀子と結婚。2男3女をもうける。
1928年 次男・陽を2歳で亡くす。このとき死んだ子供の顔《陽》(現題名《陽の死んだ日》)を描く。
1932年 東京市豊島区長崎町(現・豊島区千早)にアトリエつきの自宅を建築する。ここは、1985年に建て替えられ、現在の豊島区立熊谷守一美術館となる。三女・茜を1歳で亡くす。
1938年 この頃から日本画の展覧会がたびたび開かれるようになる。
1939年 第26回二科展に《岩殿山》《麦畑》《桑畑》を出品。輪郭線と平面による画風を築く。
1947年 長女・萬を21歳で亡くす。
1951年 戦後の結成時から会員となっていた第二紀会を脱退。以後団体展から離れる。
1956年 脳卒中の発作を起こす。以後、写生旅行をやめる。
1967年 文化勲章受章者に内定したが、辞退。
1972年 勲三等叙勲を辞退。
1977年 8月1日、肺炎のため死去。
|