Q モノクロとカラーを使い分ける意図を教えてください。
 カラーは意外と撮っていたりしますが、マザーズが1つのきっかけですね。あれはもう簡単で、口紅も何も全部モノクロでずっと撮っていて、プリントしても何か面白くない、伝わってこない。モノクロで口紅をプリントしても、なんか薄黒い色しか出なくて、全然違うなと思って……。だから自然に、「なんだ、カラーで撮ればいいじゃない」と、スッとカラーで撮り始めました。赤い長襦袢だって、モノクロで撮っても面白くないので、「これもカラーだな」と。わりと単純に、シンプルに、「赤い色は赤」というような感じで始めました。マザーズというのは結構あちこちで展示していますが、その度に新作をどんどん入れていきました。最終的にヴェネチアのときは何が新作になったかというと、要するに和物です。いま群馬の展示に出ていますが、母の長襦袢であったり、和服の下着であったり。その辺は、ベネチアだから、いままで母の残したもので、和風のものは敢えて撮っていなかったので、逆に撮ろうと。日本代表選手みたいな、要するに、日本のパビリオンで、私の個展でしょう。それでどんどん増えていって、新しく撮ったのは全部カラーです。青い靴であったり。やっぱり、赤い色は赤い色であるべきかなということで、それほど深く考えていません。わりと自然にカラーに行きました。ですから、臨機応変に、例えば、私はカラーを撮り始めてすごく楽になりました。モノクロというのは結局、フィルム現像して、プリントして、私はこんな大きなロールまで自分でプリントしますから、なんか、自分で写真を抱きしめている感じですね。でも、カラーの場合は、撮ったらラボに渡せばいい。なんかすごく、「ああ、写真ってこういうことかもしれないな。いままでやっていたのは写真じゃないかもしれない」と思いました。だって、モノクロは全部1人でできるから、すべて自分でコントロールできるわけですよ。でもカラーというのは、一応ラボでプリントするときはいろいろ言いますけれども、基本的にラボであったり、他者に委ねるという意味において、「ああ、写真はこういうふうに距離感を持ったほうがいいのかな」と思いました。それがモノクロとカラーの大きな違いかな。

Q フィルムとデジタルについてです。
 デジタルというのは、画素といって、四角いものが並んでいるだけで、私は「情報」だと思っています。でも、フィルムというのは物体です。粒子、空気があるわけです、布と一緒で。粒子は、画素のように四角くベッタリくっついていない。デジタルは情報だと思っています。だからといって、私はデジタルを好きか、嫌いか、そういうことはあまり関係なく、あれはあれで情報だから、情報的な意味においては絶対使うべきだと思っています。私は、情報は、画素は使わない。必要ないですから。私はコンピュータは持っていないし、ケータイもないし、メールも何もないので。だって、普通の電話とFAX、ポストはあるから充分ですよ。それだけあれば、世界中から会いに来てくれますよ。

Q 写真は、石内さんにとっては記録ですか、表現ですか。
 はっきり言って表現です。記録ではない。でも、写真そのものの王道は記録です。写真をそのときに撮って、それは記録される。そういう意味において、写真の王道は記録だと思っています。だからこそ、「記録」にならないような写真を撮ろうと思っています。王道でないことをやらないといけない。写真というのは歴史があまりないから、まだ歴史をつくっている時代なわけです。だから何だっていい、何を撮ってもいいし、どう考えてもいいのが写真です。そういう意味で、いろいろな人がもっと自由に写真を撮ればいいなと思うし、記録なら何だっていい。自分が好きで、これが自分の写真だと思えば、私は何でも写真だと思います。ただ私の場合は、自分の個的な問題意識の意味でしか写真を撮っていないから、大きな意味での表現であると位置づけています。

Q いろいろと撮るうちに、自分らしさ、自分の表現に辿り着くと思いますが、これが自分の写真だと思えるようになったのは、どんな作品からですか。
 やっぱり「1・9・4・7」かな。初期の三部作か……。いつも言っていますが、特に「横須賀ストーリー」なんかは、敵討ちみたいなものだから。敵討ちに、横須賀に帰っていったような写真だから、やっぱりキツいよね。あんな横須賀の街はない。私がつくり上げた「横須賀」でしかないわけで、あんな風景はないわけです。ただ、そういう意味で、「記録じゃない」というのはその辺があって、どう考えても、あれは石内都の「横須賀」でしかなくて、石内都の「アパート」でしかなくて、私の「連夜の街」でしかない。そういう、つくり上げたものです。でも、普通に、基本に立ち戻って撮ろうと思ったのが「1・9・4・7」です。

Q 関連して、風景と人ということがありますが、「街や風景を撮っているときと、人(身体)を撮っているとき、石内さんの中ではどのように気持ちが違っていますか。私は恐くて、真剣に人を被写体とすることができないでいます」。
 基本的には一緒です、風景も傷も。私は千体の傷を撮ったときに、ふと横須賀を思い浮かべました。横須賀の街は傷だらけだなと。私は初期の三部作と、「1・9・4・7」から変わったと思われているけれども、根本的な部分は何も変わっていません。横須賀のいったい何を撮っていたのか。身体の傷を撮り始めてやっとわかりました。街の傷なんですよ。要するに、軍港のある街とか、戦争の出入り口なわけです、あそこは。アメリカの基地も含めて、やはり傷だらけなんですよ、横須賀そのものは。それがわかりました。

Q 人を撮るのと風景を撮るのは、人と対するときは、人とコミュニケーションをとらないとできないというのが、とても距離感がある。でも、街でも盗み撮りをしているという気になってしまって……。
 そうなのよ。だから、街だってコミュニケーションしないと本当は撮れない。私は、スナップショットはすごく苦手で、通りすがりにパッと撮って、スッと行っちゃうような感じなので、あまり最近はやりませんが、確かに人は生身だから、しゃべるし、あったかいけれども、でも、写真を撮る姿勢は一緒だと思います。その辺は相手次第というか、相手によって違うというのは当然ありますが、撮る側がちゃんとしていれば、風景であろうが人であろうが、あなたが撮りたければそれは一緒だと。 だから、両方撮ってみればいいのよ。だから、探すしかないわね。要するに、写真というのは距離感しか撮れないわけ。距離を欠いて写真は撮れないわけです。私に言わせれば、空気を撮っているの。その空気を自分でつくりだすか、見つけるかでしか撮れないわけ。悪いけど、相手はあまり関係ない。すごく変な言い方ですが、やはり撮る側の問題だと思います。私はそのように撮ってきました。でも、あなたは自分の距離感をちゃんと見つけること。私は勝手に自分で見つけて、勝手にやっているわけだから。風景であろうが、体の傷であろうが、それこそヌードになっていただいた人に対して、私は一緒ですよ。もう1つ言うと、撮影はすごく苦手です。もう、なるべく早く、さっさと終わる。 私は、整理整頓が面倒くさいということも含めて、ネガはなるべく少なく、撮るのもなるべく少なく、短い時間でさっさと終わって、あとの時間を、飲む時間を長くするのがいいかなと(笑)。しかし、暗室はくどくやります。自分の距離を見つければ大丈夫です。何を撮っても一緒。逆に、そうでないとおかしい。風景だからこうで、人だからこうだというんじゃなくて、基本的に撮る側がきちっとした姿勢を持っていないと。

 内容より
≫ 個人的なこと
≫ 薔薇の写真について
≫ 写真表現について

≫ 「身体のゆくえ∞インフィニティー」について



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